TEO Side Story TEO Side Story
last updated 1997/05/21

第6話(全130話)

ニワトリの飛べない羽根




3 ニワトリの飛べない羽根

 家へ着くまでの十分間はピートにとって、醒めない悪夢のようだった。
 母さんが倒れた。
 その言葉は走るピートの心の中で、母さんがいなくなる。母さんが消えてしまう。母さんが
父さんと同じようにおとぎ話の中に閉じ込められ、二度と再びその腕で抱き締めてくれなくな
る。という文章へと膨らんで行った。家族に病いという魔物が襲いかかる。それはピートにと
って、母さんの童話よりも現実から遠く離れた怖い夢だった。
 自分が病気になった時なら、いつだって母さんがやさしく看病してくれる。暖めたミルクに
甘いシロップを足して、スプーンですくってひと口ずつ服ませてくれる。火照った頬や額に、
やわらかくて冷たく心地好い手をあててくれる。腫れぼったい瞼の下から見上げれば、どんな
時でも愛情をこめたまなざしでみつめ返してくれる母さんと向き合うことができる。
 病気になる、ということはそのまま母さんの暖かさに包まれる、と言うことだった。それは
体は確かにつらいけど、心はどこまでもやさしく満たされる、そんな一種しあわせなひと時だ
った。彼にとっての病気とはそういうものだった。彼はまだこの世にはしあわせとは程遠い病
いもあることを知らなかった。一日中ベッドの中で体温計をくわえたまま過ごし、夜中に何度
か目を醒ます。母さんと、と呼びかけると、ここにいるわ、心配いらないのよ、と囁き返して
くれる。そして、母さんは頭を撫でてくれながら、静かに語りかけてくれる。
「さァ、眠りなさい。夢の中で母さんがあなたをいじめるすべてのものたちに、ここから立ち
去りなさいと命じてあげましょう。その様子を想像してみてごらんなさい。あなたは病気より
も強いのだと信じてごらんなさい。あなたと母さんのふたりで、病気を打ち負かす場面を思い
描いてみて。あなたはその夢の中で騎士の姿をしているわ。国中の乙女たちが憧れる素晴らし
い騎士に。騎士はドラゴンを退治するの。絶対に負けたりしないわ。ドラゴンは夕陽を浴びて
真っ赤に燃える鎧をひと目見ただけで、恐れをなして逃げ出して行くでしょう。母さんはあな
たの夢の中で魔法使いになる。火と水と木々の力をすべて集めて、あなたに力を与えてあげる
」 そんな母さんの物語に、うとうとと眠りはじめながらピートは言う。
「母さん。女の人は魔法使いとは言わないんだよ。魔女って言うんだ」
「そうね」
「いい魔女だよね。東の魔女みたいに、やさしい魔女だよね」
「もちろん」母さんは微笑んでうなずく。「あなたを守るためだけに生まれてきた魔女よ」
 そんな夜更けの会話。
 それがピートにとっての病気というものだった。
 朝になれば、汗を吸って重たくなったパジャマと一緒に脱ぎ捨ててしまえる、そういうもの
だった。
 けれど、自分の時と母さんの場合とではまるで話が違う。
 母さんが倒れる。
 そんなことはあってはならないはずのことだった。空が決して落ちてきたりはしないのと同
じように。南にそびえる山が決して北へと向けて動き出したりはしないのと同じように。母さ
んはいつだって元気でいてくれる。そうでなければいけなかった。
 なのに。
 母さんが倒れた。
 どうして?
 決まってる。ぼくが母さんのそばを離れたからだ。行ってきますも言わないで、家を抜け出
しちゃったからだ。母さんに死ぬほどの心配をかけてしまったからだ。
 だから、母さんは倒れてしまったんだ。
 ・・悪いことをすれば、罰はお前にではなく、お前の母さんに当たるんだ。すべての子供は
   それを覚えておかなきゃいけない。
 マクファーソンさんの言葉が何度も何度もピートの耳の中でこだましていた。それはさなが
ら教会のイエス像から囁かれる言葉のように、容赦なくピートを威圧した。
 走るピートは罪の重さに肩を落としていた。足はもつれ、息は喘ぎへと変わっていた。途方
に暮れたその表情には、罪人の苦悶が深く刻まれていた。風景は色を失い、空はいきなり灰色
の雲で覆われた。ピートにとって、いまや爽やかな朝の大気も青空にきらめく真新しい太陽の
光も、木々の緑も、小鳥たちのせわしないお喋りも、何もかもいっさい本来の意味を失ってい
た。母さんがいないのに、当たり前の朝がくるはずはなかった。母さんが倒れたのに、太陽の
喜びにいったいどんな意味があるだろう?
 ピートはマクファーソンさんの家の庭先を転げるようにして駆け抜けた。飼われているニワ
トリが驚いて、飛べない羽根をバタつかせながら逃げ回り、ミセス・マクファーソンがピート
を見て大声で怒鳴っている。ニワトリの羽根のように盛大に両手を振り回して。それはピート
の視界の隅にチラリとだが捉えられていた。しかしピートはニワトリもミセス・マクファーソ
ンも無視した。お行儀良く挨拶を返したりできる心の余裕はまったくなかった。

(つづく)




Back Number


back

presented by son@ch-teo.com

Copyright(C)1997 FUJITSU LIMITED.
All Right Reserved.